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森田浩彰
"Clockwise"
2008年5月30日(金)〜6月28日(土)

 

 

About artist

作家略歴はこちらをご覧下さい。 artist cv

 

About exhibition

森田浩彰は1973年生まれ、02年に英ゴールドスミスカレッジ大学院修了後帰国。現在、東京で制作をしております。
在学中から、コカコーラのボトルにペプシを詰めた彫刻やエビアンの水をボルヴィックのボトルに移しかえるパフォーマンス、ゆっくりと回転を続ける円形の鏡など、最小限の造作で無愛想乍ら無闇にカワイイ作品を製造していた森田は、帰国後も着々と制作、発表を続けていました。
本展では、予てからごく一部では「24時間ビデオ」として噂になっていた、日用品で一分毎に時刻を刻む24時間に及ぶアニメーション作品「 Clockwise 」の完成版のほか、壁にねじ込まれた曲がった2本の木ネジが遅々と動いている彫刻、風景や建築などのグラビアに精緻な細工をした可愛いコラージュなど多数で構成致します。タイトルの「時計回りに」にある様に、普通の時間軸に沿いながら、60秒と言う時間が膨らんだり、固まったり、伸び縮みする様な新しい経験が得られる事を期待しております。
年内には水戸芸術館でのグループ展への参加も内定している要注意の作家です。
また、一足先に今週の金曜日オープンの「ニュートーキョーコンテンポラリーズ」でも森田の彫刻と映像を発表致します。

 

日常とアートの円環をめぐって

竹久 侑(水戸芸術館現代美術センター 学芸員)

日用品による日常風景での物語の創出―これが、森田浩彰の2000年代初期の作品群に共通する特徴といえるだろうか。筆者がはじめて見た森田の作品は《From Evian to Volvic》[2001] 。壁の上にエヴィアン、下にヴォルヴィックが置かれ、エヴィアンに開けられた小さな穴から水がこぼれ落ちヴォルヴィックのボトルに回収された形跡を見せる軽妙なインスタレーションだ。水が商品間を移動したという物語が読みとられた瞬間、本作のシニカルな社会批判が浮かびあがる。ミネラルウォーターという自然資源を商品化して売るという経済至上主義的な思考、そしてラベルがなければ中身の判別が困難で消費者はコン テンツより付加されたイメージをもとに購買するという過剰な 消費社会の有り様を、本作はユーモラスに揶揄してみせた。ま た、作品の素材に天然資源のなかでも政治性を孕む石油などでなく、いたって身近で日常的な水が選ばれたことは、以降の作品にも共通する、森田の日常性への関心を端的に示していた。 2つの使い捨てカップがごみ箱のなかで扇風機の風を受けて舞 うインスタレーション《Two Cups in Dustbin》[2001]では、 扇風機という日用品の簡単な仕掛けによって、ひどくチープで ありふれたモノがとたんに有機性を帯び、まるで子猫がじゃれ あっているかのような愛らしく生々しいイメージを連想させる 。また《Screws》[2002]では、壁から突き出た2本の曲がった ネジがゆっくりと大きな円を描くように回転する。ネジがぶつ かりそうでぶつからないスレスレの緊張感は、ワルツを踊りな がら互いの気持ちを探りあう男女の姿を呼び起こす。このほかにも森田の初期作品には、鏡、トイレットペーパーなどのあり ふれたモノになんらかのシンプルな仕掛けを加えることで、セ ンチメンタリズムやユーモアを醸成するものが多く見られる。 なかでも上記2作にうかがえる、日用品の感傷的な擬人化、日 常におけるポエジーの創出は、フェリックス・ゴンザレス・トレス(1957-1996)の《Untitled (Perfect Lovers)》[1991]やガ ブリエル・オロスコ(1962-)の初期作品《Crazy Tourist》[1991] および《Breath on Piano》[1993]に通ずる。この連想は、森 田が2004年に《オロスコはボイスをみ、ボイスはデュシャンをみ、デュシャンはあなたをみる》でオロスコに言及したことを ふまえるとあながち間違いではないだろう。森田の2000年代初 期の作品群は、デュシャンが創始した、大量生産品のアートへ の転化、つまり価値の転換という王道のコンセプチュアル・ア ートの系譜を、オロスコらを経て森田自らが引き継いでいることを顕示する。  だが、デュシャン以降さまざまな美術家がすでに多角的に扱っ てきた日常のアートへの転用について、森田は自らの独自性を 模索しているように見えた。

そして2004年ごろから森田は時間という概念を扱いはじめた。 時間を表象する「時計」を自ら作るという行為をとおして、時間という抽象観念の探究にくりだした。これを機に森田の作品 は、従来の感性に導かれたような軽妙さが薄まり、日常という領域の探索に思考の深みをのぞかせるようになる。 その好例である《Clockwise》[2008]で、森田は自分のアトリ エにあった工具で時計をつくった。といっても、本作のなかで 工具は、日常の道具(=モノ)から表象に転換されている。00:00から23:59までの1440通りの数字の組み合わせを工具をさ まざまに並べ替えることで表現し、時を進ませるごとに撮影し た。その映像素材を実際の時間尺に合うようつなぎあわせ、24 時間を表す時計を映像作品としてつくりあげたのだ。 森田は本作を仕上げるために、この気の遠くなるような作業を3 年間断続的に繰り返した。このように時間という概念の追究が 自らの精神力との対峙と並行した前例に、ローマン・オパルカ や河原温が挙げられる。だが森田の見据える先は、偉大な先人 らとは異なる。森田は、自戒的ともいえる行為をとおして時間 を非世俗的な立ち位置から扱うことを求めていない。なぜなら 、森田にとって時間は、哲学的テーゼである以前に、食事や睡眠といった日々の行為を自ら営み、他者と共有するための「指 標」であるからだ。それだけでない。楽しい時間は速く過ぎ、 そうでない時間は遅く過ぎると感じるように、何にもゆるがさ れない基準であるはずの時間は、日々の営みにおいてひとの心 が浮き沈みするのに連動し、絶対性が希薄になりあいまいにな る。森田の考察の対象は、まさにこのような日常のなかで体感 される時間の相対性だ。  《Clockwise》は、映像という時間軸上に成り立つメディア の特異性をいかして、鑑賞者に時間を身体的に感じさせる。時 の進行に即したメディアであるために、鑑賞者は本作を見るに あたって、その表象するところの時間について「思考」するよ りもまず先に、否応なしに時間を「体感」することになる。そして、《Clockwise》を見てつまらないと思えば1分も経たな いうちに、つまり表象としての工具が時を刻む展開を見ないま まに立ち去るかもしれないし、逆に興味を覚えれば工具の組み 合わせの妙が示す時の刻みに見入るだろう。つまり《Clockwise 》は、鑑賞者の本作に対する興味の程度を、それが作品中に表 象する時間の長短によって実測することになる。さらにいって しまえば、本作はひとが内部にしまっておけたはずの心情を、 時間という尺度で鏡に映しだすようにあらわにするのだ。もっ とも、24時間の時計をつくるのに3年をかけた森田こそ、その 日その日の自己の集中力や気分の高低を、自らが作品中に刻む 時間尺の長短によってまざまざと知らしめられたはずだ。この ように森田は、映像というタイムベース・メディアの作品を鑑 賞もしくは制作するという、日常的とは言い切れない行為をと おして、平常に偏在する時間を特別な視点から意識させ、時間 の(尺度としての)絶対性と(身体感覚上の)相対性を同時に 顕在化する。それが森田が《Clockwise》で試みた挑戦だ。

秋に向けた次作の構想を森田に聞いた―実際のさまざまな日常 風景のなかで手動で時を刻みゆくパフォーマンスをとおし、時 間の長短が状況や感覚によって多様に感じられることを可視化する映像作品が企図されている。これによって《Clockwise》 で扱った「感覚上の時間の相対性」という解しにくいアイデア を日常という見慣れたフレームに落とし込み、身近な方向へと 展開させることになるだろう。となれば森田は次作で、2000年 代初期に披露した日常における物語づくりの軽妙でユーモアな 視点を、それ以降の深淵な観念の探究に織り交ぜることになるのではないか。次作をもってこのふたつの世界観が掛け合わさ れることを筆者は予感し、森田浩彰が次なる段階へと飛翔する 期待を胸に募らせている。